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3・13 水の確保
地震の翌日、福島の原発が爆発を起こした。

爆発のことをいつの時点で知ったのかを書き留めていなかったので、
正確な日時がわからないが、おそらく電気が復旧しテレビを見てからだと思う。

それを知った時、自分が食糧を買うために
6時間外で並んでいたその時間帯だったと思い当り、
南風が強かったあの日を想像して、なんとも言われぬ不安感が襲って来た。

(被ばくしたかもしれない)

まず想像したことがそれだった。
原発のこと、放射能のこと。ほとんど知識がない。ただただ怖いと感じた。

テレビでは「ただちに健康に~ほにゃらら」と繰り返し安全を強調していたが、
そんなはずはないと、全く信用できなかった。
おそらくチェルノブイリのことが、少しだけ私の中に情報があったからだと思う。

何に気をつけ何に注意したらよいのか。
専門家といわれる人、なんとか大学の教授、口をそろえて「安全」という。
「安全」を信じていないので、「注意しろ」という人をおのずと探してしまう。

そして見つけた一人が中部大学の武田邦彦先生。
ブログを見て、色々参考にさせてもらっている。

こと原発や放射能に関しての情報は、程度も内容も様々なので、
どこから出た情報なのか、信じられる情報なのかと
慎重に確認しないと危険だと感じている。

あくまでも専門科であること、
発信したご本人が情報(データなど)を自分で調べる手段を持っていること、
またその個人や団体がどういう実態であるかなど、
できるだけ色々な方向から情報を見るように心がけている。

いまはなぜか、「安全」と「危険」の間に「危険ではない」の3択の世の中だ。
そしてその3択を自分で判断しなければならない。
少なくとも私はこれからも「注意しろ」という人の話に耳を傾けると思う。


■武田邦彦(中部大学)ブログ http://takedanet.com/


今日は、3月12日の夜から13日の出来事です。

********************************

 (3月12日の夜 停電中 自宅にて)

相変わらず停電中の家は、次第に薄暗くなってきた。
余震も続いている。そのたびに、玄関のドアを開けに走る。

何かあったときすぐに逃げ出せるよう、念のため玄関に近いリビングで寝ることにし、
懐中電灯やラジオ、必要最低限の荷物を詰めたリュックをそばに置く。

夕方6時ぐらいだが、とりあえず寝るしかない。
昨夜はほとんど寝れず、さらに今日は一日中、外に立っていて、
足はこわばり、疲れきっているはずだが、興奮状態で目がさえている。

やっとお互いの話をし始めた。
主人は海沿いが職場だったため、津波にあった。

津波は想像とは異なり、ゆっくりやってきたそうだ。
津波警報を知り、職場の屋上に上り海の方を見ていたら、
黒いものがどんどん近くに押し寄せてきた。
なんだろうとみていると、家の屋根、材木、看板、店、車などが押し寄せてきた。
テレビの映像どおりだが、波ではなく、物の塊であることが怖かったと言っていた。

未だにこのことを想像すると涙がでてくるのだが、
その中には人もいて、離れていてとても助けることができる距離ではなかったそうだが、
いつのまにか波にのまれ沈んでしまったそうだ。
私はこの話を聞いただけで、実際に見てはいないのに、
私の頭からはその時の映像を見ていたかのように感じられ、苦しくなる。

・・・・

主人の職場には毛布などがなかったので、部屋にあったもので段ボールを床に敷き、
遮光カーテンを毛布代わりにして一夜を過ごしたそうだ。
そして、うちの車が流された時のこと、連絡を取ろうとしていたが取れなかったこと、
翌日、職場から歩いて帰ってきた時の様子などを聞いた。
私も地震が起こってから、夫に会うまでのことを話した。

結局その夜も、余震であまり眠れなかった。

翌朝、地元のラジオ局を聞いていると
7時半から岩沼市内3か所で給水があるという情報が流れた。
一番近い岩沼市役所に行ってみることにした。

ちなみにその時点での我が家の水の状況は、飲料水2Lのペットボトルが3本。
夫がダンベル用に使っていた2Lの水入りペットボトルが2本(中の水は何カ月も前の水道水)。
お風呂に残っていた少しの水。飲料水以外は、トイレ用に使用していた。
ちなみにトイレはその都度流せないので、ある程度の回数の後、まとめて流していた。

さて、給水に行くには、水を入れるものが必要になる。
うちには以前函館時代に湧水を汲んでいた10Lと20Lの水タンクがあった。
それとアウトドア用の2Lの袋が2つ、ジュースの空きペットボトルが2つ。

市役所は近いと行っても、車がない。
自転車で自分たちで持って帰れる分しか運べない。
夫の大きなリュックに10Lのタンクを入れ、こまごました容器を私のリュックに入れた。

13日朝 8時40分 市役所到着

市役所に来る途中の道は大渋滞。
どうやらガソリンスタンドにならんでいるようだが、スタンドが開いてない。
市役所前の体育館には、津波で亡くなった方のご遺体が安置されていると聞いた。
体育館の方を向いて、そっと手を合わせご冥福を祈る。

そして、すでに市役所前は給水を待つ人で大行列。
前日に続いて、また列に並ぶ一日が始まった。
水のタンクを持っている人もいるが、ほとんどがあり合わせの容器だ。
バケツにビニール袋をかぶせていたり、ポットや鍋の人もいる。

並ぶ列は蛇行し、ちょっとづつしか進まない。
途中、豆腐屋さんの車が来て、お店が開けられないからと、豆腐を配り始めた。
私たちもひとつもらった。ありがたかった。今思えば、少しでもお金を払えばよかった。
そのままご厚意に甘えてしまった。豆腐はその日においしく頂いた。

天気は晴れ。屋根のない広場は日差しが強く、風がないため前日と違い暑い。
化粧をしておらず、日焼け止めも忘れていたので、暑いが完全防備。
列はなかなか進まず、待つ人は地震からの疲れといら立ちが見て取れる。

そんな中、なぜか列が自分の前ではなく、横に動いた。それも一斉に。
結果、どうなるか。列がぐちゃぐちゃ。
誰が誰の後ろだったのか、さっぱりわからなくなった。
すでに何時間も並んだ状態で、この有様。
割り込むな!どうなってるんだ!と一触即発の状態。

市役所の人らしき人を探して、「危ないので、列を整えてください!」と伝える。
しかし、役所の人も一人だけ。
これだけの大人数を統制できる訳もなく、ただただ平謝りで解決しない。
結局、このままでは水をもらうことができなくなるので、
並んでいた年配の男性たち数人がロープを使って列を作りなおしてくれた。
列の順番はぐちゃぐちゃで不満を言う人もいたが、
とりあえず、乱闘騒ぎになる前に収まってよかったと思った。

水は制限があり、一人6Lだった。夫と2人分で12L。
私たちの順番が回ってきたのは、14時30分。
前日と同じく朝から並んで約6時間だった。

水は給水車からホースが出ていて、自衛隊の人に容器を渡すと水を入れてくれた。
私たちの後ろにも朝と変わらない人の列がまだまだ続いていた。

並んでいたとき情報の収穫があった。
私たちの前に並んでいた人と話していたら、車で15分ほど行った場所のスーパーが
購入制限なしでお店を開けているという。商品もそこそこあると。
明日は朝一番にそこのスーパーまで出かけてみようと夫と話す。

アパートに戻ると、小さな子供さんがいる家庭や、
自転車や車などの交通手段がないなど、水をもらいに行けない家庭もあったので、
ペットボトルの水を持って、近所の家を回り、水はあるか確認した。
今のところ大丈夫だという家庭が多かったので良かったが、
必要な時は分ける分があるのでいつでも言ってきて下さい。と伝える。

家に戻り、あるもので昼食を済ませる。
水はとりあえず確保した。次は食糧だ。
明日の買い物に備えて、家にある食糧を確認しなければ。
3月末に引越しを予定していた我が家には
引っ越し用にもらっていた段ボール箱がちょうどあった。
組み立て、その中に家にある全ての食糧を集める。

米、もち、そうめん、マカロニ、缶詰、シリアル、カロリーメイト、
のり、わかめ、カレーのルー、ふりかけ・・・・

ガスが使え水が少しあるので、この食糧でとりあえずしばらくはなんとかなりそうだが、
スーパーが営業しなくなると、とたんに食糧が減り始めることは明らかだ。
地震で物流が止まっている以上、長期戦に備えて食糧を考えなくては。

水を無駄にできないので、鍋もフライパンもペーパーで拭きとるだけ。
食器は汚れないようにラップをして、これも拭きとるだけ。
ただ、ゴミをため込むといつ捨てられるかわからないので、ゴミもできるだけ少なくしたい。

まだ電気もつかない。
ランタン、ラジオの電池もそれほど多くの予備はない。
水、食糧、電気。今はどれも限りがある。
普段いかに何不自由なく生活しているかがよくわかった。

明日は、朝一番でまたスーパーの列に並ぶ。
当然ながら風呂も入れない。
夕方6時過ぎ。今日も夕闇とともにラジオを聞きながら、横になる。


(2011年3月11日東日本大震災 「3・13 水の確保」・・・・終)



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3・12 食糧確保
地震発生の夜、ラジオから、仙台市内で数百体の遺体がある、
という情報が繰り返し流れていました。
テレビやネットでの情報収集ができず、唯一の手段はラジオでした。

津波による被害、という内容は流れていなかったので、
私はなぜそんなにたくさんの方が亡くなられたのかわかりませんでした。
地割れが起きたのか、建物が倒壊したのかと想像していたのです。
なにより津波がこれほどの大きな災害になるとは、全く想像できませんでした。

地元FM局があったので、多少は近辺の情報が入るものの、
その時に知りたい細かな情報を、知ることができない不便さを痛感しました。

被災地にいるがゆえに、被害の状況を理解することができたのは、
電気が復旧してからだったのです。しかし、テレビはついたものの、
ネットはしばらく使えず、私の携帯電話の電波も不安定で、
詳しい情報を知ることはできませんでした。

地震後、日々の生活に関わる情報収集は、個人個人の聞き伝えが一番頼りでした。
情報を共有するため、アパート1階の出入口扉に張り紙をして伝達されていました。

近所の避難所となっていた中学校で見た方法も、とてもわかりやすかったです。
避難所ということもあり見やすいように、大きな用紙を床に置き、
用紙を継ぎ足し継ぎ足し情報がかかれていました。

情報は時間の経過とともに刻々と変わるので、
記入する用紙は上から下に時系列に記入されていました。
書き込む情報には、情報を書き込んだ日時が書いてありました。 

もし、集合住宅で活用するならば、書いた人の名前も一緒に記入しておくと、
確認しやすく誤伝達が少なくなるかなと思いました。


(ー集合住宅などでの伝言 例ー)

本日9時から給水車が市役所に来るそうです。
容器は各自持参。                3/12 7:00 斎藤

アパートの外の蛇口が利用できます。
ただし、タンクにある水は限られているため、
節水に努めて下さい。              3/12 8:30 山崎


スーパー○○が明日10時から開店するそうです。
購入数制限ありとのこと。            3/12 9:50 原田


(↑内容はあくまでも私が考えた例です、実際のものとは異なります) 


もし何かの参考になれば。
なので、ご自宅の防災袋にはメモ帳と筆記用具も入れておくと何かと便利です。

今日は、地震発生の翌日のできごとです。



********************************

 (3月12日の朝 快晴)

不安な一夜を過ごし、翌朝は何事もなかったかのような快晴。
ひとまず、無事に朝を迎えられたことにほっとする。
みんなが目覚めたところで、持ち寄ったパンなどで軽い朝食をとる。

まずは、水と食料の確保。
情報収集も兼ねて、昨夜偵察した避難所になっている中学校に数人で行ってみることにした。

水は、近々給水車が来るらしいが、詳細がわからないらしい。
中学校には、非常用のビニール袋入り2Lの飲料水があるので、
1世帯1袋だけは配布可能ということで、数袋もらって帰ることにした。

(今日、明日の飲料水はこれでなんとかなるだろう)

食糧については、海沿いの地域の被災状況が大きく優先されるので、
内陸の私たちの近所は、配布はないので、自分たちで確保してくださいとのこと。

(私たちは、まだ津波の状況をしらなかった)


中学校の玄関ロビーには自家発電が動いており、延長コードをつないで
多くの人が携帯電話を充電していた。私もリュックに充電器を入れていたので、
充電してから戻ると言い、他の方と別れて中学校に残った。

充電を待ちながらふと見ると、玄関隅に「利用できます」と書かれた公衆電話があった。
非常時なので、SOSを押して電話をかけると無料でかけられるようだ。

誰も並んでいないので、ちょっと不思議だったが、
まずは夫の携帯にかけてみる。やっぱりつながらない。
とりあえず、夫の実家と、私の実家に二人とも無事だと伝える。
私が電話をしていると、他の人も気づいて後ろに並び始めたので、
必要なことだけ伝えて、電話を切る。
心配していたので、とりあえず無事と伝えられて良かった。

携帯の充電が終わり、アパートに戻るとみんな自宅に戻っていた。
中学校の公衆電話が使えたことを伝えて、私も自宅に戻る。

改めて部屋の中を確認する。
地震の時、台所からすごい音がしていたので、かなりめちゃくちゃを想像していたが、
食器棚も冷蔵庫も転倒防止対策をしていたので、何も倒れてない。

冷蔵庫の上にのせていた小物が横のワゴンの上に落ち、
そこにあった珈琲カップが一つとグラスが一つ割れていた。
被害は以上。

食器棚の中や上の吊り棚の中のものは、すべて滑り止めマットを敷いたり、
鍋の前には突っ張り棒つけていたので、
何一つ飛び出ていなかった。

今後の余震対策をしなければ。
リビングはテーブルやPCラックなど足に車が付いていて動きそうなものは
隅に寄せ、動かないように固定する。
冷蔵庫や、吊り棚など扉が開いてしまいそうなものは、
綺麗に剥がせるビニールテープを張り、揺れで開かないようにしておく。

片付け終わると、時間は朝9時。水は手に入ったが、食糧が心配だ。
私たち2人ならなんとかなるが、昨夜避難していた世帯分の食料となると
今後の避難生活を考えても、あるにこしたことはない。

念のため、歩いて行けるスーパーに偵察に行くことにした。
夫がいつ戻るかわからないし、未だに携帯もつながらないので、
家の玄関扉に、「スーパーに様子を見に行きます 9:30」とメモを張って家をでた。

スーパーに着くと、すでに長蛇の列。
お店が開くかどうかもわからないが、並ぶしかない。
10時前から並び始めた。天気はいいが、風が冷たく、寒い。

途中、買い物を終えた人からの情報で、お店の中には入れず、
お店の裏を開け、一部の商品を並べて売っているそうだ。
しかも購入数に制限があるらしい。一人5点まで。

持参していた水筒のお茶を時々飲みながら、青空駐車場でじっと待つ。
並んで、並んで、並んで、並んで・・・・・・・
商品の前に来たのは、並び始めてから6時間後の16時。

やっと順番。商品を見ると、必要なものはほとんど売り切れていた。

少し前の列に並んでいた同じアパートの奥さん達が、商品が少なく選べないと教えてくれた。
20人ほどの人で分けられるものなら数が多いものがいい。
缶詰5個あったって、どうしようもない。
小袋に小分けされたおかきのような菓子類と子供用のぼうろを合わせて5袋だけ。
6時間並んだ成果がこれだけかと悲しくなる。

隣接した別のスーパーの方も人がまだ並んでいる。
身体は冷え切り、足も疲れているが、チャンスがあるなら並んでみようと、
もうひとつのスーパーの列に並びなおす。
こちらもお店の入口に商品を並べて販売しているようだ。
しかし、購入制限がないのか、割とたっぷり買い物をしている。

「17時でお店は閉めますので、並んでいても購入できない場合があります」
とお店の人がアナウンスした。
おそらく、私の前には100人は並んでいる。今16時半。
まだまだ縮まらない列に、16時50分、諦めて家に帰ることにした。

普段当たり前のように商品がならび、買い物できることが夢のように思える。
商品がない。店が開かない。買い物できない。
災害がおきるとそういう状況になるのだということを思い知らされた。

アパートに近づくと、夫が自宅の窓から私の帰りを待っているのが見えた。
「買い物を届けてから帰るから~」と外から夫に声をかけて、
避難場所になっていたお家へ向かい、5袋のお菓子を届けた。

うちのアパートはプロパンガスだったため、
ガスがつくことがわかった奥さんたちが炊き出しを準備していた。

「ご主人には会った?まだ?早く帰って帰って!!!」
「ご主人に持って行って。奥さんの分も後で持って行くから!」と
温かい炊き込みご飯のおにぎりをもらい、自宅に戻った。

「ただいま」「おかえり」「おにぎりもらった」
お互い非日常過ぎて、逆に普通すぎる対面だ。

聞くと夫は10キロほど離れた職場から、みんなで歩いて帰ってきたそうだ。
帰り道、偶然開いていた個人経営のコンビニで食糧を少し買えたと、
カップラーメンを見せ、温かいおにぎりと一緒に食べた。

昨夜からほとんどまともなものを口にしていなかった。
炊き出しをしてくれた奥さん達の心配りがとてもありがたかった。

昨夜から今日一日、お互い話したいことはたくさんあるが、
未だ停電中。日没までに準備することが色々ある。ただ黙々とご飯を食べた。

その時はまだ、その日福島で起こった出来事をしるよしもなかった。




(2011年3月11日東日本大震災 「3・12 食糧確保」・・・・終)



3・11の夜 その2
札幌に来て、まずは札幌の防災マップを確認しました。
検索するとすぐにヒットするのですが、
地域ごとの最大震度予想、建物倒壊率、液状化予想地図などを確認できます。
見た瞬間、ぞっとしました。
地震の規模が思いのほか大きいのです。

札幌に来て、地元の人には「札幌は大きな地震がないからね~」と言われました。
東北に比べると歴史が浅く、大きな地震を体験した人がいないからだと思われます。

福岡にいたころ、「福岡は地震がない土地だ」と同じことを思っていて、
実際には大きな地震にあって、実は活断層があることがわかったので、
「地震がない土地」と思い込んでいる気持ちがよくわかります。

けれど、色々な調査報告をみると、札幌市周辺にも活断層があり、
それも数百年単位で大きな地震が起こっているので、
私が生きているうちに地震が起こるかわかりませんが、
札幌も全く安心という訳ではないようです。

そこで今回の震災で、我が家の地震対策を再度いくつか見直しました。
札幌で起こって一番被害が大きいと予想されるのは、冬です。
地震被害の他に、避難中の凍死が予想されるからです。

まずは、自分の住んでいる地域の情報を知っておくと対策もできます。
今回の地震を体験し、縁があって札幌に来たので、札幌の防災情報などを
今後も何かの折に紹介できればと思います。

では、今回も3月11日の夜の出来事の続きです。


********************************

 (3月11日の夜 避難したお宅にて)


臨月の奥さんを心配しながら雑談をしていると、ひとりの人に友人からメールが届いた。
アパートからも近い中学校が、避難所になっているとの内容だった。

ちなみにラジオで岩沼のFM局から流れる情報では、
避難場所は私たちのアパートからやや遠い岩沼小学校という情報しかなかった。

中学校ならなんとか様子を見に行けるかもしれない。
臨月の奥さんを対処するのに、何かしら連絡手段がないと困ることになる。

しかも津波の情報もその後定かではなく、また大きな余震が来たらこのアパート以外に
避難できる場所を確認しておくことも必要だ。

しかし、津波の危険性が残る中、確か中学校は川の近くだったはずだ。
果たして本当に安全だろうか。

外に出るのは危険だという意見もあるなか、
私なら、この中で唯一子供がいないので身動きが取れる。
もし、危険を感じたら戻ってくると約束して中学校の様子を見に行くことにした。

外に出ると、駐車場の車の中に避難している同じアパートの男性が一人いた。
地震が起きた直後、他の奥さんがこの男性と話をしているのを見ていた。

こちらの様子をうかがっているようだったので、車に近づき、
私たちの部屋の状況やこれから中学校を見に行くことを話すと、
「危ないので一緒に行きましょう」と言ってくれた。

確かに辺りは真っ暗なので、一人で見てくると家を出てみたものの、
男性がついてきてくれると言われて、正直ちょっとほっとした。

道路に車が数台走っているが、信号機が停電しているので、気をつけないと危険だ。
中学校までは、川の横を歩いていくが、見ると水位はそれほど上がっていない。
「この川は海には直接つながっていないので、大丈夫ですよ」と男性が教えてくれる。

中学校までの経路は子供でも安全だと確認できた。
では、室内はどうだろう。一部、非常灯のようなものが付いているが、やはり暗い。

学校の先生らしき人や、避難している数人が話し込んでいた。
私たちが避難している場所に臨月の奥さんがいるが、
何か緊急の対処が必要になったら連絡手段はあるか?
と尋ねると、「手段はない」「どことも連絡がとれない」と言う。

ただ、近くの産婦人科は機能していると聞いているので、
心配ならば早めに移動させておいてはどうかと言われる。

(家に戻って検討してみよう)

避難所の中を見に行くと、部屋はストーブがあり、暖かい。
トイレも使えるそうだ。ただ、どの部屋もすでにいっぱいで、毛布も足りず、
自分で持参するしかないそうだ。

とりあえず、中学校の様子を確認して再び来た道を家に戻る。
アパートに着き、男性にも声を掛けたが、
「部屋には女性子供しかいないなら、男性の自分が行くと不安に思うかもしれないので、
車で待機しているから大丈夫だ」と言われた。

確かにそうだ。こんな時なのにとても配慮のきく方だと感心した。
アパートの下に着くと、臨月の奥さんが出てきていた。
実家の方が近くに住んでいて車で迎えに来てくれたので、実家に避難するそうだ。
近くの産婦人科が機能していることを伝える。

あぁ。本当に良かった。これで後は無事に出産できることを祈ろう。
(後日、無事に出産されたと聞きました)

部屋に戻り状況を説明すると、やはり子供たちを移動させるのは厳しいという結論になった。
このアパートが倒壊しないことを祈り、なんとか朝までこの部屋で過ごすことに決めた。

夜中も余震は続き、テレビの横で寝ていた私は、余震の度に起きてテレビを抑えていた。
リュックも背負ったまま、上着も着たままただ横になり、
寝ているような寝ていないような夜を過ごした。



(2011年3月11日  3・11の夜 その2....終)



3・11の夜 その1
お久しぶりです。
先日は久しぶりに古巣の道南へ出向き、
これまた久しぶりにキャンプを楽しんできました。
大好きな駒ケ岳のふもとで一夜を明かし、
翌日は羊蹄山を見ながら温泉に入って札幌へ戻ってきました。

どこを見ても、緑は青々とし、空は青く、風は心地よく、
生きている実感を得た次第です。

さて、ブログを書こうと内容を考え始めると、
未だ遅々として進まない原発問題、放射能汚染への進まない対応、
食品への不信感、被災地の厳しい現状と悔しく思うことばかりで
感情ばかりが高ぶり、書きたいことがまとまらず数ヶ月経過....

初心に戻って、地震の体験をそのまま綴ろうとやっと重い腰をあげました。

以前の記事には拍手やコメントを頂戴しありがとうございました。
また頑張ります!

今日は、前回の続き、地震発生後夕方からその夜のことです。


********************************

(地震発生後 1時間ほど経過)

しばらく津波がこないかどうか、階段の踊り場で確認しているうちに、
まもなく夕暮れがやってくることに気付いた。

電気は停電している。日没までにできる準備はしておかなければと思い、
各自家に戻り、準備をすることにした。

地震後、初めて自宅に戻るので、まずはブレーカーを落とす。
停電後はブレーカーを落とさないと通電した際に火災が起きると聞いたことがあったからだ。

余震は続いているので、玄関は開けっ放しにして、いつでも逃げられるようにしておく。

いつまた大きな地震がくるかもわからないので、
今しなければならないことを優先順位をつけて考える。

部屋を片付けている暇はない。まずは、すべての部屋で全開になっている窓を閉めてまわる。
(地震の際、揺れで閉めていた窓がすべて開いてしまった。)

次に、食糧、水。
最低限すぐに必要なものはリュックに詰めなおして背負うことにした。

食糧はとりあえずカロリーメイトが目についた。
携帯電話の充電器
ヘッドライト(アウトドアで利用していたもの)
ポケットティッシュ
タオルハンカチ
軍手

最初に持ち出した貴重品もリュックに詰めなおし、
リュックを背負ったまま、いつでも逃げれるように上着も着たまま準備を進める。

偶然にも最近浄水器が故障し、2Lのペットボトルの水まとめて購入していた。
段ボールのまま玄関に移動し、いつでも取り出せるようにしておく。
沸かしたお茶が保温ポットに入っていたので、すべて保温水筒に詰めなおし
リュックのサイドポケットに入れる。

今後部屋に戻れない事態も考え、とにかく必要なものは玄関周りに出しておこう。
ボックスティッシュ、トイレットペーパー。

それにもし夫が戻ってきたら(その時はすぐに帰ってくると思っていた)、
車で寝泊まりすることになるかもしれないと
寝袋、カセットコンロとボンベ、アウトドア用のガスボンベ、アウトドア用の食器類、
毛布、旅行用のお風呂セットも必要になるかもしれない、ちゃくちゃくと準備を進める。

途中余震が来るたびに、玄関外に急いで飛び出す、ということを繰り返しつつ、
部屋や押し入れから荷物を運び出し、玄関周りに荷物を集めた。

その数時間後、車は津波に流されたと聞き、この準備は結果的にはあまり意味がなかった。

もうかなり薄暗くなってきた。まもなく日暮れがやってくる。
なんとか真っ暗になる前に準備ができて良かった。

相変わらず携帯はつながらない。

真っ暗になって、玄関を開け放したまましばらく玄関に座り込んでいると、
上層階に避難していた方が、「一緒に上の家にいよう」と声を掛けてくれた。

うちには子供がいないので、普段近所づきあいをしておらず、
面識があまりない私がお邪魔するのも悪いかな....と遠慮していた部分もあったが、
「早く声をかけなくてごめんね」とかえって気遣ってくれて、本当にありがたかった。

余震が続いているので、玄関は開けたまま、家の中は暖房もなく外と同じ気温。寒い。
毛布を持ち寄ろうと、私も玄関先に出しておいた毛布類をあるだけ持ってくる。

災害袋を準備していた方も数人いて、手動の携帯発電機、ラジオ、
アウトドア用ランタン、パンや、お菓子など一晩過ごせるものは大体揃っていた。

私も何か食べた方がいいとパンを勧められたが、子供が10人ぐらいいたので、
大人の私がもらうくらいなら子供たちのためにとっておいた方がいいので、断る。
それに食糧がなくなったらカロリーメイトが2箱リュックにあるので、
少ないが、いざとなればみんなに分けることもできるかもしれない。

そのまえに興奮状態で食欲は全く感じない。

いったん、みんなが軽い食事を済ませ、落ち着いた。
ふと、あの家の人が見当たらない、あそこの家は大丈夫だろうかという声が出てきたので、
とりあえず確認に回ることにした。

夕方の雪もやんで、空には雲ひとつない。
皮肉なことに街中が真っ暗なので、空には満点の星空。
岩沼に来て以来、こんな星空をみたのは初めてだった。

ヘッドライトをつけて、気になる家を回り声をかけた。
家具などに下敷きになっていないか、しばらく玄関ドアの前で
声がしないかどうか確認してみたが、どうやら留守のようだった。
(後日、買い物していたスーパーで避難していたことがわかった)

外の駐車場には5~6台ほど車の中で避難している人たちがいた。

避難家に戻ると、みんな職場に残っている旦那さんと連絡を取ろうとしていた。
数人が連絡が取れ、家には誰が避難しているか、職場の旦那さん達の無事はどうかを
お互いにやり取りし、その場にいる奥さん子供と、職場の旦那さんの無事はほぼ確認できた。

職場の周りが津波に襲われ、水が引かないので翌日水が引いてから帰宅するとのこと。
私は充電が心配で、通常オフライン状態にして、時々確認していた。

ある一瞬、メールがどっと届き、夫からのメールが来た。
が、本当に一瞬ですぐに圏外。返信はできず、夫のメールもいつ送ったのかわからない。

メール:(奥さんと連絡が取れた人からRaRaの無事の確認ができました。車はすべて流されました)

とりあえず、夫は無事で、車は流されたのか.....ということがわかった。
その場にいたみんなにも、「車はみんな流されたみたいよ」と伝えると、

「夫がみんな無事でほっとしたけど、車が流されたと聞くとやっぱり惜しいね」とみんなで笑った。

こんな危機的な状況でも笑えることにほっとした。

子供たちは、不安に泣き叫んでいるかというと....そんなことは全くない!
こんな状況がかえってイベント気分を盛り上げるようで、ハイテンション。
お泊まり会気分で楽しそうだ。
そののほほんとした様子が大人たちのピリピリムードも和らげてくれる。

そうは言ってもたびたび余震が来ると、部屋の中央にあるテーブルの下に子供たちを集める。
子供たちも不安がないはずはない。けれど、いつもどおりにしてくれていることが本当に心強い。

停電、断水で問題になるのがトイレ。
偶然うちのアパートが上にタンクがあり、上から水をおろすタイプだったので、
一晩は、タンクに入っていた分の水を使うことができ、トイレを流すことができた。
むやみに流すと今後がどうなるかという心配がなかったこともないが、
家族だけなら我慢できるが、他人同士が共同でトイレを使うことになり、
いきなり断水にならなかったのは精神的に助かったと思う。
特に、子供たちは流してないトイレを使うのは、厳しかっただろうと思う。

ちなみに私はトイレを使うとき、自宅に戻り用を済ませ、節水のため流さずにいた。
少しでもタンクの水を残しておきたかったからだ。

10世帯ほどの子供、奥さん達が集まる中、特に心配だったのが、
地震があった前日がが出産予定日だという臨月の奥さん。
床に直接座り、部屋は寒く、毛布しか暖をとるものはない。
しかも出産経験者なので、産気づいたら出産までの時間はそれほどかからないかもしれない。

「いざとなったらここで産むからみんなよろしくね~」と笑いながら言えるところは
さすがだなぁと思ったが、とにかく心配でならない。

臨月の奥さんをどうするか.....ランタンの光だけですごす部屋で、考え始めた。


(2011年3月11日  3・11の夜 その1....終)



  

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