考えるヒント
4、5月頃ひどかった耳の奥の痛み。
しばらくおさまっていたのに、ここ数日またチクチク、ずきずき。

ひどかった時は、頭痛も併発していて、
3月からめまい、立ちくらみもひどかったので、
5月末に耳鼻科に行ってみた。

診察後、異常なし。
内耳付近の血行が悪くなっているのでは・・・と言われ、
アデホスコーワとメチコバールという薬を処方された。

すると薬を飲んで5日後。

猛烈な吐き気と頭痛で夜中に目覚めて、その日一日激しい頭痛。
突然の状態悪化に、薬に疑いを持って、
病院に問い合わせると、副作用の疑いもあるので、中止するようにと。

その後もしばらく耳のチクチクは続いたが、
どうせ耳鼻科を変えても一緒かと、ほおっておき、
7月は痛みの回数が減っていたので、安心してたら、また痛み出した。

気になって、色々調べたら、たどり着いたのが放射能関連。
あ~、またか~。

一つを調べると、そこからまた気になるワードが出てきて、
さらに調べると、なんかまた小説並みに恐ろしい内容にヒットしたりして、
内容が、どの程度信ぴょう性があるのかわからないけれども、
見たことない聞いたことない恐ろしい話を知ったので、
しばらく頭がフリーズ。

想像して感じた恐怖心と不安感を自分の中でどうしたらいいのか
わかならいでここ数日経過。

ちなみに、夫は原発関連の話をするのは嫌がるので、
このことに関してだけは、話し合うことができず、
あまりに、ぶっとんだ話は、全てを「なんだそれ」と疑いの目で見られるので
私が知り得たあくまでもパブリックな情報だけを一方的に伝えるのみ。
返事は期待してない。

危機感に関しては、私と夫に温度差がある現実。
ま、でも話しておけば、夫は私の話を頭には留めておいてくれるので、
じわじわと伝わるはず。

目の前を見れば、被災地の復興に手伝えること、
原発の反対を唱えること、政治に関心を持ち声を上げること。。。
やらなきゃならないことは山ほどあるのに、
どれも無意味に思えて、再び無気力に。

そんな中、いつもチェックしているブログで見つけた情報で、
久しぶりに私の頭でも理解でき、参考になるのがあったので、
やっと私の頭が現実に戻ってきた。

8月4日の新潟県の泉田裕彦知事の会見動画。

新潟は柏崎刈羽原発があり、2007年に中越沖地震や、
原発事故を対応した経験から、今回の東日本大震災への新潟の対応状況、
政府の震災対応の問題点、法律の不備など、説明がわかりやすかった。

さらにウクライナと日本の放射能基準についても紹介。
日本の基準がどういうものかが一目了然だと思う。

最近、地方自治体や北海道議員、政府のパブリックコメントなど
意見を言わなきゃと思うところにはなるべくメールを出すよう努力している。

しかし、何を伝えたらいいのかわからないこともしばしば。
物を知らないんですな~、残念な私。

泉田知事の会見で参考になったなぁと思ったのは、
・福島原発の検証の中で、なぜ1号機だけが早く爆発したのか?という具体的な疑問点
 ⇒事故検証の内容を確認するポイントになりそう。
 
・政府の対応不備の中で、日本には広域災害対策、法律がないという点
 ⇒政府、北海道への提案のヒントになりそう。

・原発のテロ対策状況
 ⇒泊原発関連の質問に使えそう。

・太陽光発電の具体的なコストとコストパフォーマンスの試算
 ⇒北海道がどれくらいちゃんとやってるかの判断材料になりそう。

という感じ。

色々な人の話を聞いて、こつこつ知識を増やし中。
ちなみに3月以降の体調の変化は、
覚書としてブログに書き留めておこうと考え中。
念のためが好きな私。





会見内容は1時間ぐらい。気になったかたは、どうぞ↓。

http://www.youtube.com/watch?v=g4JQtOG25dU&feature=player_embedded




モエレ沼公園と温泉
岩沼にいた頃は、近くのトレーニングルームに行ったり、
近所の阿武隈川沿いや、名取川沿いなどを走ったり、
自転車乗ったりしていたのですが、
札幌でも少し運動しようと場所を探していたところ発見したのが、

モエレ沼公園 

少し前から夫の休みの日は、朝から軽い運動をするべく通っています。

休日や10時ぐらいになると家族連れで賑わうのですが、
私たちが行く平日早朝には、ほとんど人気もなく、
貸切気分が味わえます。

(写真は7月と8月に行った時のまぜまぜです)

201107モエレ沼公園1

外周は、歩数計を見る限り3キロちょいという感じ。
公園の中は、色々な施設や遊具、山など多彩です。

201107モエレ沼公園3

外周を走ったり、自転車に乗った後は、公園内の山を登るのが毎度の習慣。

201107モエレ沼公園4

登りきると、頂上はこんな感じ。

201108モエレ沼公園1

201107モエレ沼公園8


もうひとつの山が見えてます。

201107モエレ沼公園6

山を下りて、振り返るとさっき上った山。

201108モエレ沼公園5

201108モエレ沼公園6

てくてく歩いて、もうひとつの山へ。こっちは階段。

201107モエレ沼公園13

初めて階段で頂上まで上ったときは、やや息切れ。ふーっ。
別の方向から緩やかな階段もあります。下りはそっちで。

201107モエレ沼公園17

360度ぐるっと見渡せます。

201108モエレ沼公園2

201108モエレ沼公園3

201107モエレ沼公園14

201107モエレ沼公園15


山の上から公園を見たとき、人が誰もいないときは、
自分家の庭のような気分になれて妄想好きにはたまりません。

1時間~2時間ほど運動した後は、近くの温泉へ。

札幌あいの里温泉 なごみ 

あいの里 なごみ

こじんまりしてますが、平日の午前中ともなると人もまばらで、
ゆっくり入れて、汗びっしょりのべたべたが、一気に爽快に。
先日は少し遅い時間に行ったので、12時を過ぎていたら、
通常420円が15時まで390円で嬉しい限り。

モエレ沼公園走って、温泉。
最近の休日のお決まりパターンになってます。



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  モエレ沼公園
   札幌市東区モエレ沼公園1-1  011-790-1231
   開園時間:7:00~22:00(入園21:00まで)
   HP http://www.sapporo-park.or.jp/moere/index.php

  
  札幌あいの里温泉 なごみ
   札幌市北区南あいの里5丁目1番20号  011-778-7531
   午前10時~午後11時 年中無休
   HP http://nagomi-onsen.jp/ainosato/index.html




同じ大人
先日福島の子供たちが政府の役人達に
ばしばしと意見を言っているのを見ました。
ふがいない役人達にあきれたのと、
自分自身これまで原発に関心がなかったことに
責められている同じ大人の一人だと、
恥ずかしい気持ちがしました。

一方で、子供達を守ろうと行動する大人達もいます。
つい最近こうゆうニュースがでました。

市営プール近くで放射性物質を検出…川崎(読売新聞、ヤフーニュースより 8/19金)
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110819-00000161-yom-soci

ちなみに同じ内容の毎日新聞版(ヤフーニュースより)もありました。
東日本大震災:近隣でセシウム、プール利用中止--川崎・中原 /神奈川
(毎日新聞 ヤフーニュースより 8/19金)
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110819-00000068-mailo-l14

私自身、自分のブログに他記事のリンクを張るのは、
あまり好きではないのですが、
事実を検討するのには最適なので、
ごちゃごちゃしますが、気になったら開いてみてください。

そのニュースを見たときに、あ、これがあのブログの内容だったんだ。
と思い当りました。下のブログ内の記事です。

【放射能防護プロジェクト 木下黄太のブログ 福島第一原発を考えます】の
「まず行動ことが如何に大切か、土壌調査や放射能測定に取り組む、ある母親の行動」
 (2011年 8月18日)の記事です。
http://blog.goo.ne.jp/nagaikenji20070927/e/21c5276e944c940bb58eb42c0526cf5f

ニュースだけしか見ていなかったら、
放射能検出から対策に至るまでの市民の方の努力を知らずにいたことでしょう。
ニュースで伝えられない過程を知るいい機会になりました。
自治体を動かすということが、どれほど大変か・・・。
けれど、努力すれば効果を出すことができるというお手本だと感じました。

放射能汚染状況を知るために測定し、除染する。
汚染を広げないために、原発稼働に反対する。
家族の安全を考え、西日本、沖縄、はたまた海外に移住する。
心配だし、気になるけど、どうしたらいいのかわからない。
「安全」だと言っているのに、気にしすぎだ。

などなど・・・危機感の程度も行動も、どこに価値観を持つかも人によって違います。
経済的に余裕があって、親戚家族全員で海外に行けるなら、
正直私も海外に行きたいと思うかもしれない・・・。

しかし、札幌で放射能の心配をしながら、日々を送っているのが現実。
じゃあ、私はどうするか。

子供たちに非難の目を向けられる役人たちと同じ大人で終わらないように、
もっともっとちゃんと考えようと思う。



積丹半島の夏 うに丼
泊原発稼働されちゃいましたね。

北海道内外から泊原発稼働反対の声や、安全チェックに疑問が残るという声、
泊原発付近の活断層調査を受けての安全対策見直しの声、
あきらかに疑問、不信感が残る大きな声があちこちから出ている中での
高橋はるみ知事のあの会見。

そういう反対の大きな声を無視して、原発稼働をしたいと
全国ネットで顔を出し会見することが、北海道に恥をかかせ、
ご自身が恥をかいたことに気づいていないんでしょう。
北海道民を危険にさらす判断をしておいて、知事の資格はないですな。

思ったんですが、今後原発のことを話し合う会議は、
全て福島原発敷地内で行って欲しいものです。
安全な場所でいくら話し合いをしても、無駄です。
せめてご自身で身を呈して、福島原発内から、稼働賛成、原発賛成を訴えてください。ぜひ。
ま、でも後は根気比べなので、これからも反対し続けますけどね。

それで話は変わりますが、、私ができることを色々考えた結果、
一番頑張れることは、今までやっていたように、
今住んでいる北海道の好きなところを、ブログで綴ることだな、と。
原発反対には直接力にはならないことはわかっているけれども、
私なりの泊原発反対の表明のようなものだな~と思いました。

北海道の良さを知って、北海道の自然の大切さを訴える方が、
私には合っている。
なので、これからも北海道あちこち、食べ歩き、遊び歩いてご紹介していきます。

早速手始めに。
先月積丹半島へ行った時の写真です。(まさに噂の泊原発がある半島です。)
積丹は函館時代にウニ丼を食べに行ったことがあり、今回が2回目でした。

前回は中村屋さんでしたが、今回は

「お食事処 みさき」さんへ。

確か10時前に着いたと思うのですが、やはり、すでに賑わってました。

2011みさき


じゃーん。赤ばふん生うに丼。
2011積丹

25食を超えると3500円だそうですが、数量に間に合ったようで3200円でした。
ちなみに赤ばふん生ウニは、6月中旬~8月末までとメニューにありました。

あまりの美味しさに、お醤油とワサビをつけるのを忘れて
しばらくそのまま食べてました。
とろけるんだけれども、身はほどほどにしっかりとしていて、
ほどよい塩気と甘み、そして旨味のなんとも言えない美味しさ。

見た目はそれほど多くないかなぁと思ったけれど、
前回の中村屋さんと同じく、途中でおなかいっぱいになり完食はできず、
残りは夫へ・・・。とにもかくにも美味しかったです。
まさにこれぞ積丹の夏という感じでした。

食後は、みさきさんから少し車を走らせ、

「神威岬」へ。

以前にも訪れたことがあったのですが、その時は、強風で扉が閉鎖されていて
岬の先端に行くことができなかったので、リベンジ。

開いてました!

神威岬6

女人禁制の地と書いてありますが、今は大丈夫。いざ岬の先端へ。
道はきちんと整備されていますが、階段あり、坂あり、未舗装ありで、
思いのほか距離もあって歩くので、歩きやすい靴の方がいいです。

朝、札幌から積丹に来る途中は雨が降っていたので、
どうなることやらと思っていたのですが、2度目の神威岬参りには、
ご縁があったようで、天気も回復。散策に最適な陽気になりました。

神威岬2

神威岬7

神威岬3

神威岬4

岬の先端に到着。
さすがに風が強い。神威岬の神様にしばし手を合わせる・・・。
祈ってばかりではだめかもしれないけれど、
手を合わせるの好きなんです、私。
神社仏閣、お地蔵さん、大木、夏山、雪山、海、晴れた空、心打つ景色、などなど・・・
思わず祈らずにはいられない。この一瞬に感謝。
四国回ってた時、心に響いた言葉って「念ずれば叶う」だったし。(れっきとした無宗教です。)

数年前積丹に初めて来たとき、海の青さに驚いたんです。
北海道にも青い海があるんだなぁ~って。まさに積丹ブルー。

神威岬1

積丹半島を散策して、思いのほか汗をかいたので、
温泉に入って帰ることにしました。外観の写真を撮るのを忘れました。

「岬の湯 しゃこたん」

高台にあるので人眼もなく、広い露天風呂からどど~んと海が見えて、景色は最高。
休憩室も広くて綺麗で、しばらくのんびりと一休み。

札幌に来て久しぶりの遠出で、満喫できた一日でした。


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  「お食事処 みさき」
  北海道積丹郡積丹町大字日司町236  0135-45-6547
  8:00~17:00 不定休 駐車場あり 20台
  ※期間中は基本的には無休。4月~11月中旬の期間限定営業です。
  

  「神威岬」
  ■北海道 積丹観光 Web site内  http://www.kanko-shakotan.jp/gaido.html


  「岬の湯 しゃこたん」
  ■北海道 積丹観光 Web site内 http://www.kanko-shakotan.jp/misakinoyu.html

 (注意:情報は、2011年7月に管理人が積丹を訪れ、2011年8月17日時点の情報を元にしています。
     ご了承のうえ、ご参考になさってください。)




幸せオーラ
ブログをみてもわかるように、毎日目で追う情報は原発、原発、原発・・・
泊原発稼働が瀬戸際になったここ数日は特に詰め込み作業。

調べれば調べるほど、泊原発が安全とは思えないことばかりなのに、
決定権を持つ人達には、よほど安全なものに見えるのだろう。
それか原発が金がざっくり入った宝箱にしか見えないかのどちらかだろう。

北海道の高橋知事も同じ女性のメルケル首相のような英断できる人間ではなかったようで、
「地元軽視」とか茶番振りまくだけ、さらに達が悪い人間だとがっかり。

そして福島原発事故以後、メディアが信用できないなぁ~と思っていたけど、
最近さらに泊原発のことを知ってからは、
北海道内外各地で反対運動や反対の意見書などが出されているのに、
メディアでそれを目にすることができない。

ある時など、「地元は容認の方向です」なんて、
すごく一方的な情報しか流さず、あまりのいい加減さにテレビに向かって
「あほか」「反対運動やってるだろう!うそつき~!!」と思わず半怒鳴り気味。

そんな日々を過ごしていたので、昨日夫から
「最近怖い顔してるよ」とぽつり。

ですよね~。原発のことを見てると、罵詈雑言だらけ。
頭の中も心の中も黒々としてきて、暗闇から抜け出せない気分にどっぷり。
北海道民の一人として無視できることではないので、
自分なりにやれることはやろうと思っている。

けれど、ちょっと頭と心を休ませよう。
心と体に余裕がないと冷静な判断もできないというものだ。
最近またちょっと体調もいまいちだし。


さて、最近の私の明るい話題を考えよう。
6月に弟夫婦に子供が生まれ、私にとって初の姪っ子ができた。
写真でしかみてないけど、なぜだか血のつながりを感じた。ふしぎ。

お祝いに洋服を送った。その洋服を選びに行ったときのこと。
姪っ子の写メは、なぜだかいつも裸んぼなので、どんなのを着せているのか、
イメージがわかない。けれど一目見て気に入る洋服があった。
かなり私好み。弟夫婦の好みはわからない。姪っ子は裸んぼ。
私色に染めてしまえ~とその服を送った。

その服が弟夫婦にはかなり好評だったらしく、
「めちゃかわいい!いますぐ着せたいぐらいだよ~」と
お礼の電話がかかってきた。(サイズが少し大きいのでまだ着れない)

よしよし。これからも私好みの女の子にしてやろうではないか。

(我ながら、おやじくさい・・・)

弟夫婦には「お礼などいらないから、「RaRaおばちゃん」と、
ちゃんと言えるようにしっかり仕込んでおくように!」と念を押した。
親戚に小さな子供はいるが、しつこく「RaRaお姉ちゃん」と呼ばせていた私。

それなのに、姪っ子から「おばちゃん」と呼ばれるのを想像すると・・・・
思わずにやける。心も頭も黒からピンクになる感じ・・・・
姪っ子から、初「おばちゃん」と呼ばれる日を待ち望んでるぞ!弟夫婦よ!
子供の幸せオーラをもらった最近の嬉しいできごとでした。



3・16 福岡到着
毎日出だしが原発関連が続いていますが・・・・
故郷九州の玄海原発再稼働を心配していたら、
気づくと今度は、北海道の泊原発に矛先が向かっていました

とりあえず、海江田大臣が北海道の意見を聞く・・・というところのようですが、
「地元軽視だ」と主張していた高橋はるみ知事が
正しい判断をして、原発稼働に反対してくれることを願います。

私も、今回は少しだけ行動してみました。
首相官邸のホームページに行くとご意見募集という項目があって、
そこに泊原発稼働反対意見を送ってみました。

いつもぶつぶつ文句言ってても、直接行動したことなかったので、
正直、送信ボタンを押すが怖かった。えいっって感じで。
読まれないかもしれないし、何の意味もない行動かもしれないけど、
自分的には、気持ちをを発信できたことが記念すべき第1歩。

そして、北海道庁や知事宛てには、そういうメッセージを送るのがなかったので、
直接関係ないけど、札幌市は市長宛てのメールが送れるので、
それにも泊原発に札幌市としてもっと反対してほしい旨のメールを送りました。

またまたドキドキ。
声をあげるって正直怖い。

これって悪い方に想像し始めると・・・・

誰が原発反対しているのか調べられて、
家族とか本人とかに無関係の逮捕状とか出て、
怖い人が家に来て拉致られて、
これ以上反対するな!とか脅迫されて、
家族の仕事場とかに警察が来て、
家族が仕事を辞めざるを得なくなって、
ネットとかでも実名とか好評されて、
どえらい目にあう。

・・・・ってのが「24(アメリカドラマ)」での展開なんですよね。
(ま、「24」なら、目ざわりな人はすぐに殺されますが。)

ドラマ知恵ですぐこうゆう妄想に走りますが 笑

でも、今回ばかりは、こういう考えを持った市民がいることを
知ってもらえる可能性があるなら、やってみようと思えたので、ポチっと。
だって、北海道好きだしね。それが一番の原動力。

大げさなことができるほど大きな人間ではないし、
勇気も度胸もありんこ並みなので、今の私にできる精一杯のこと。
そして、一人の意見なんてほんと宇宙から見た米粒のようなものだけど、
やらないよりやった方がまし・・・ぐらいの感じで。


今日は、3月16日秋田空港を出てからのできごとです。

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 ( 3月16日 秋田空港を羽田へ向けて出発 )

無事に秋田を出発した。
途中、事故が起こった福島原発近くの上空を通るのだろうか。
そればかりが、気になった。

原発上空は飛行制限が出ているので真上を通ることはないだろうが、
それでも、羽田に向かうからには、全くちがう方向ということはないだろう。

飛行機に乗っていた間のことは、あまり記憶になく、
携帯に事細かくメモしていたのも、秋田空港を最後にほとんど記録してない。
とにかく、原発がこれ以上爆発しませんように、
と必死に祈っていたのは覚えている。

羽田には福岡便への乗り継ぎ時間ぎりぎりに到着したので、
連絡通路をこれまたダッシュで搭乗口に向かったが、
羽田からの便が機材整備遅れていて、しばらく待ち時間があっての搭乗。

12時30分。福岡行きが出発し、やっとこれで福岡に帰れる・・・・と思った。
羽田から2時間かからずに、福岡空港到着。見慣れた景色。帰ってきた。
福岡空港に着くと、すぐに親や友人たちに連絡。

弟と母親が車で迎えに来てくれていた。
スノボウェアに登山靴、大型ザックを背負った私をみて、
違う意味で驚いた感じだったが、こっちはそんなの気にしていられない。

それからは、親戚や友人たちから温かい言葉を沢山もらい、
3月末に引越しの予定が立ち岩沼に戻るまで、福岡でゆっくり静養することになった。

しかし福岡に戻っても着いてすぐは、ほとんど眠れなかった。
興奮と緊張が続いていた。

そんな福岡滞在2日目の夜のこと。
地震から全く連絡を取っていなかった友人から電話がかかってきた。
私たち夫婦の安否を心配しての電話だった。

どの友達のルートとも違う友人だったので、私の状況を全く聞いておらず、
私は地震以後のことを彼女に話し始めた。
夫とも知り合いなので、夫の職場が津波にあい、車が流された・・・と話した。

彼女の旦那さんとも知り合いなので、電話している彼女の後ろで
明らかに酒を飲んでいい感じになっていたその旦那さんも電話に代わると言っている。
旦那さんが電話に出ると

「RaRaちゃん、なになに~、旦那が津波に流されたんだって・・・大笑」

私の頭の中がどっかーん。
まだ緊張状態で、張りつめていた気持ちがブチ切れて、まずは無言で携帯を切る。

夫は隣の部屋で寝ていた。
けれど、気持ちがおさまらない。時間は深夜。

気持ちのやり場がない。折り返し電話をかけなおす。
友達が私の電話だとわかり、電話をとるなり泣きながら謝っている。

「旦那に代わって」とだけ言い、旦那が電話にでると、
「地震のテレビは見てるのか」と問う。
「見ている」と答える。
「どれだけの人が犠牲になっているのかわかっているのか」と問う。
「わかっている」と答える。
「どうせテレビの前で、酒を飲みながら津波の状況を見て笑っているのだろう」と言う。

それからは、私が一方的に相手の無神経さを罵る。
大声を上げ、泣きわめき、罵声を浴びせる。
感情と涙が止まらない。相手は一方的に謝っているが、そんなのでは気が済まない。

「どうせあんたは、その程度の人間だってことよね」

と言って、一方的に電話を切る。
電話を切っても、感情がコントロールできない。大声で泣く。
夫がびっくりして、私の様子を見に来る。だまって私の傍で落ち着くのを待っている。

夫が心配するので、とりあえず、なんとか泣きやもうと冷静さを装う。
もう大丈夫だからと、私は夫とは違う部屋で寝る。
夫が隣の部屋のベッドに入った様子を確認してから、また布団をかぶり声を殺して泣く。

明け方まで泣いて泣いて泣いて。ほとんど眠れなかった。
途中から、自分の意志とは関係なく勝手に涙が流れた。

友人の旦那さんの言葉に腹が立ったのもあったのだが、一番は

「もしかしたら、夫が津波に流されて死んでいたかもしれない」という現実に気付いたからだ。

今まで地震や、原発のことで毎日目の前のことで精一杯で、
そんな想像をしたことがなかった。きっと生きていると信じて疑わなかったし、
事実生きて私の元に戻ってきた。けれど、戻らない可能性があったことを初めて気づかされた。

泣き疲れて少し眠ったのか、
それでも時計を見ると1時間も寝てなかったのだが、
早起きの私が起きてこないことを、親戚が心配して私の様子を見に来た。

目覚めるとまた涙が勝手にでてくる。突然泣きだす私をみて、親戚がびっくりして事情を聞く。
とりあえず、夫も朝ごはんを食べてるから、起きておいでと言われ、
なんとか起きて行くが、夫の顔をみるとまた涙が止まらない。

「○○くん(夫)はちゃんと生きてるから、心配しないで」と親戚が言う。

泣きながら、少しだけご飯を食べるが

「勝手に涙がでて、止まらないんだよ~」と繰り返す私。

「今日は、ゆっくり寝てたらいいよ。」
「涙が出たってことは、安心したってことでもあるから、
 泣きたいだけ、どんどん泣いていいからね。」と夫が言ってくれて、気が楽になった。

思う存分その日は泣き通しで、翌日以降、泣きやんでからも、
テレビで震災の情報を見ると涙が止まらず・・・という、
感情がコントロールできないことがしばらく続いた。

それからは、しばらく携帯の電源を切り、誰とも連絡を取らなかった。
本人は悪気はなくとも、また誰かに傷つけられるのが怖かったからだ。

それでも、しばらくしたら落ち着いて友人とも話せるようになった。
今思えば、タイミングが悪かったとしかいいようがない。
張りつめた気持ち、不安な気持ち、そのど真ん中であんなことが起こってしまったのだ。
今なら、聞き流すことができただろうに・・・と思う。

友人夫婦が不仲になってしまわないかと心配になり、
後日メールして、あの時は私の精神状態がいつもと違ったから、
過剰に反応してしまったと謝った。

その後も気持ちの不安定さは少なからずあった。地震や原発によるストレスのせいだろう。
怒り、悲しみ、不安、恐怖、絶望感、無力感。
色々な気持ちが、時には大きくなり、時には小さくなりを少し前まで繰り返していた。
抜け出せないのだろうか・・・・と思った時もあったが、
今は、こうして冷静にブログに綴ることができるようになった。

夫は生きているし、
私も生きている。

地震後色々な励ましのメールをもらった。

「生きているんだから、亡くなった人の分まで自分の命を大切にしないと」

このメールをもらった時期はまだネガティブな時期で、
素直に「そうだね」と返事できなかった。

生きているのは私で、亡くなった命と私の命は別のもので、
代わりに補えるものではない・・・とその時本当は言いたかった。

今は、少し前向きに「私にできることはなんだろうか」と思える。

まだまだ日本中で大きな地震が起きる可能性が言われている。
今回の地震を体験して、日本にいる限りどこに住んでいようとも
地震は来るものだと思って生活するしかないと感じている。

建物や、地盤のことになると個人ではあらかじめ準備できることは限られるが、
家の中や、普段の防災意識は最低限、自分の身を守ってくれる可能性があると
思っている。

一個人の地震から数日間の出来事を綴ったものなので、
あまり役に立つような内容はないのだが、
自分だったら・・・と置き換えて考えれるようなことが、
もし、あれば幸いだ。

そして改めて、心配し、助けてくれた方々へ感謝の気持ち。

最後に、今回の地震で命を落とされた方のご冥福を祈り、
住み慣れた宮城をはじめ、被災地が復興できるように願ってやみません。




(2011年3月11日東日本大震災 「3・16 福岡到着」・・・終わり)



3・16 秋田から福岡へ 
3月15日。
仙台から山形へ向かうバスの中で、偶然隣り合わせた韓国の大学生。
彼が、日本のことについて私に質問したことのひとつが、

「こんな地震や、放射能の状態になって日本は復興できると思いますか?」と。

私は、無意識のうちにこんな返事をした。

「できると思う。戦争をし原爆を受けても、それを乗り越え、これだけの国になったんだもの」

ほとんど即答に近かった。なんの根拠もないのに、
日本人の力を信じている自分に、答えた後に気付いた。

その時は放射能というものについて、甘く考えていたからとも言える。
地震や津波の被害からは、時間がかかっても、
またきっと街がよみがえることができるだろうと想像できた。

今は、放射能がまき散らされる前の安心できる日本に戻るには、
予想以上に困難で、時間もかかるだろうと感じている。

そして、今日は8月9日。長崎へ原爆が落とされた日だ。
長崎に祈り、東北で亡くなった命に祈り、
そして今ある命のために、明るい日本の未来を祈りたい。


今日は、3月16日朝からのできごとです。

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 ( 3月16日 早朝5時 酒田駅前ホテルにて )


どのくらい眠れたかわからないが、余震もなく穏やかな室内に
目を開けた時、安心感があった。

5時に目覚め、出発準備を始める。
今日は予定通り行けば、午後には福岡に帰れる。

荷物を詰めて、準備を終え、朝食開始時間には少し早いが、
前日にホテルの方から了承を得ていたので、朝食を食べに行く。

バイキング形式なので、ここ数日食に飢えていた私たちには
どれもこれも食べたくてしかたがない。
けれど、6時41分の電車なので、6時半にはホテルを出たい。
食べる時間は多くて15分。時間がないので、私は食べれる分だけ少量選ぶ。

夫は我慢しきれなかったのか、あきらかに15分では食べれない量を取ってきている。
案の定、私が先に食事が終わり、ホテルのチェックアウトを済ませ、
移動用の飲み物などを買って、準備し、
もう急いで行かないと間に合わないという頃に、食事を終えて走ってきた。

駅まで駆け足で向かう。6時38分。セーフ。定刻通り秋田行きの電車は発車した。
電車は、日本海側を北上する。車窓からはのどかな風景が続く。
最初車内はまばらだったが、途中から通学の学生たちが乗車し、賑やかになる。

いつもの日常。いつもの時間。いつもの顔。
私たちのような登山ルックでいかにも避難中という雰囲気の人は他にいない。
数日前の私たちに起きた出来事が夢の中のことのように感じる。

乗車して1時間50分。8時32分。予定通り秋田駅に到着。
空港へのリムジンバスの時刻がわからないので、
急いでバス停を探し、これまた駆け足。

8時40分。バス停到着。もうすぐバスが来る予定なので、
羽田行きの飛行機、10時45分発に間に合いそうだ。
秋田駅から秋田空港まで通常35分ほどかかる。いずれにせよ、時間に余裕がある。

と、思っていると、バスが来ない。
遅れているのだ。しばらく待ってようやくバスが来たが、
発車してしばらくすると渋滞につかまった。
どうやら、途中片側1車線の道で、ガソリンスタンドがあり、
そこに並ぶ車の列で車が通れず、身動きできなくなっていた。

バスの中で、これは間に合うのか?とあせり始める。
察したようにバスの運転手さんが、
「空港には渋滞していることを連絡してますので、安心してください。」とアナウンス。
しかし、飛行機が待ってくれるとは限らないのでは?と疑いの気持ち。

市街地を外れると、車線が多くなり、スムーズに走り始める。
けれど、行けども行けども空港らしき雰囲気が見当たらない。
知らない場所へ向かうとき、帰りの道は早く感じるのに、
行きの道はどこまで行くのかとやたら時間が長く感じるものだ。

10時過ぎ。秋田空港に到着。
急いでバスを降り、チェックインカウンターへ向かう。
空港内は、人がごった返している。外国人も多い。
手荷物と預かり荷物を分けないといけないので、空いている場所を探して、
必要なものを小さなバックに詰め替える。

人の列をみて、チェックインに時間がかかりそうだとあせっていると、
係の人が、クレジット払いの人は機械でできるのでと誘導してくれる。
チケットの予約を取ったとき、自分のカード番号を叔母に伝えておいて良かったと安堵。
無事にチェックインでき、搭乗口に向かう。

すでに搭乗が始まっていたので、お手洗いを急いで済ませて、列に並ぶ。
ここで、また声をかけられる。日本人の女性とインド系の女性。
どうやらインド系の女性が一人で私たちと同じ羽田行きの飛行機に乗るのだが、
日本語があまり喋れず、一緒に搭乗してほしいと頼まれた。
日本人の女性は見送りに来ただけのようだった。

わかりました。と伝えて、インド系の女性と一緒に並ぶ。
セキュリティチェックがあるので、
飲み物やPCなどを持っていないかと彼女に聞いて、
どちらも持っているというので、バックから出して準備するように(夫が)伝える。

順番がせまってきていたので、彼女も慌てている。
大丈夫だからと、とりあえず、一緒に行き、
セキュリティチェックを終えて、彼女が荷物を片付けるまで手伝う。

搭乗は優先搭乗で、私たちは後列、彼女は前列だったので、私たちが先で一緒にいけない。
周りを探すと、一人の日本人女性が壁際でチケットを手に立っている。
きっと前方の席なんだろうと予想がついたので、声をかける。
聞くと案の定、インド系の女性と席が近かった。

「この(インド系)女性が、日本語が得意ではないようなので、一緒に搭乗してもらえますか?」

と言うと、快く一緒にいてくれることになった。
(日本人の)彼女が一緒に連れてってくれるから、とインド系の彼女に伝えて別れた。

つくづく、私はよく声をかけられる。
国内でもそうなのだが、ソウルに行ったときでさえ、何度道を尋ねられたかしれない。
話しかけてオーラ、でも発しているのだろうかと自分で笑える。
そして、その現場を度々目撃する夫もいつもウケている。

そして、10時45分。秋田から羽田へ向けて飛行機は飛び立った。
まずは羽田へ向かうという今日の目的が一つ果たせた。



(2011年3月11日東日本大震災 「3・16 秋田から福岡へ その1」・・・終わり)




3・15 福岡へ帰ろう その3
現在の日本では、被ばくした子供たちをきちんと診察できる小児科医が少ないという
内容を読みました。今までに診察例がないからだそうです。
チェルノブイリで診察経験のあるお医者さん達と連携することを希望されていました。

一部では低線量被ばくによる体調不良を懸念される声もあるようで、
放射能と関係があるかないかは、おそらく時間をかけての研究などによるのでしょうが、
子供が原因不明の体調不良になることほど、
お母さんたちにとって不安が大きいものはないでしょう。
すでに後手後手でしょうが、放射能に対応する医療体制を早急に整えて欲しいものです。

そんな内容をみて、改めて原発のいきさつやチェルノブイリの状況などが知りたくなり、
原発関連の本を読み始めました。

色々思うところはあるのですが、原発に対して無知であった、
もしくは知らされずだまされたという前提は一旦外して、
もちろん最後まで先祖代々の土地を渡さぬよう努力した方々もおられることでしょうし、
色々な理由がからんで、身動きが取れなかったこともあるでしょう。
ただ、あきらめや妥協の中にも、最終的には原発を受け入れることになったのは
一瞬「自分たちは幸せになれる」と、思えたからではないかという気がしました。
(あくまでも私が感じた印象です。)

お金がもらえる、職がもらえる、道路ができる、税金が少なくなる・・・

人によって受ける形は違えど、結果的には、
裕福な暮らし、利便性のよい町、地域の繁栄。
どれも、誰もが描ける当たり前の幸せに思えます。

そんな「普通の幸せ」が、「安全な原発で」叶うと思っただけなのに。
その代償は一瞬の過ちですべてを奪うことになるかもしれないなんて。
無責任に原発を推進してきた人達が恐ろしい・・・・。

転勤族の私たちは、原発のない場所ってどこかしら・・・と数年前、
こんな状態になることなど夢にも思わない頃、地図上で探したことがあります。
ほとんどないのです。原発の息の根がかからないところなんて。
日本中原発だらけに驚き、どこも同じか・・・と
諦め気分になったたことを覚えています。

ちなみに札幌市の私の家から一番近い原発は、泊原発。
直線でおおよそ70キロ圏内。

以前住んでいた岩沼市は、福島原発から80キロ圏。
函館市は、大間原発から、海を挟んで30キロ圏内です。

親、兄弟、親戚、祖母・・・多くの知人が暮らす
福岡市や、佐賀市に一番近い原発は、玄海原発。
どちらの市も直線でおおよそ40キロ~50キロ圏です。

福島の事故での関東の影響を見ると、
風向きなどで一概に距離では言えませんが、
それにしても、どこも絶対安全とは言えない場所です。

そして今住んでいる北海道にも、故郷の九州にも
大好きな豊かな自然があちらこちらにたくさんあります。
美味しいものも、数えきれません。
「人間はいつか死ぬんだし・・・」などと、あきらめている場合ではない。

せめても自分の家に一番近い原発の状況に関心をもつ時期なのかもしれません。
まずは知りたいと思うことから。


今日は、3月15日のできごとの続きです。

********************************

 (3月15日 15:40 山形 山交BC到着)

偶然にも仙台からスムーズにバスに乗り、山形市内に無事に到着。
実は半年ほど前、ふと思い立って山形県を車で一周する旅をしたばかりだったので、
山形の地理は大まかに頭に入っていた。

そして友人から、秋田で電車が動いている可能性があるとの情報があった。
家から破り取ってきた東北の地図を見ながら交通機関を探す。
そこから考えると、山形から日本海側の鶴岡や酒田まではバスがあるし、
酒田から日本海側を通る秋田方面への電車が確かにあった。

地震の影響で運行状況はわからないが、今の時点の選択としては一番確実に思える。

山交BC前でバスを降りると、また目の前に人の列があった。
なんの列かと尋ねると「鶴岡・酒田行きのバスに並んでいる」という。
列の先頭は見えず、どれくらいの時間になるのかわからないが、並べばいつか乗れる。
最後尾を探して、とりあえず並ぶ。

並んでいる間、時間的に今日は酒田までぐらいが限度かと思い、
念のため酒田駅周辺のホテルを予約して抑えておくことにした。
距離感、時間、地域の情報など、以前の旅行で得ていた知識の一つだった。

そして、酒田から秋田まで電車で行けるか、どのくらい時間がかかるかも
携帯が使えるので検索する。
おおよその移動時間は確認できた。電車が動いているかどうかは、
酒田に行ってから直接確認するしかないだろう。

そして秋田空港を目指すからには、より確実に移動するために、
できれば航空券を抑えたい。
夫の知り合いに予約を頼もうとするが、相手は仕事中のようで連絡がとれない。
そんな時、九州へ向かうことを伝えていた私の叔母からメールが入った。

叔母メール:(今どこにいるの?空港は決まった?)
私:(山形までバスで来ました。酒田に向かうバスに並んでます。)
私:(秋田空港に向かう予定ですが、チケットがまだ手に入っていません)
叔母:(空席を調べてまた連絡するから)

・・・・・

叔母:(九州への直行便はないから、羽田経由で乗り換えなら少し席がある)
叔母:(早くしないと席が埋まりそうだから、どうするか連絡をして)

そんなやり取りをしている最中に、予想より早くバスに乗れる順番がきた。
どうやらこの状況なので、臨時便が増発されているようで、バスがたくさん来ている。
バスの料金を払って、荷物を荷物置き場に載せて、とあわただしくしているので
叔母への返事ができない。叔母からは催促のメールが続く。
とりあえず、バスの中に入り、席に座ってメールを開く。


( 16:00 鶴岡酒田行きバス 山交BC出発 )


私:(今、鶴岡酒田行きのバスに乗れました。)
私:(今日は時間的にも、酒田まで行ってみます。ホテルも予約入れてます。)
叔母:(明日なら秋田空港の何時の便に間に合う?)
私:(予定通りで行けば10時半には秋田空港に到着できるはずなので、それ以降で探してください)
私:(私と夫のマイレージ番号とカード番号を送るので、そのまま予約を取ってください)

そこまで連絡したところで、バスが山間の高速道路に乗ってしまったので、
携帯が圏外になり連絡が取れなくなった。
窓の外を見ると、辺りはすでに真っ暗。
しかも辺り一面雪景色で、吹雪いている。やはり日本海側は雪がまだ多い。
おそらく、道路には1メートル以上の積雪が残っている。

バスの中は相変わらず満席で、先ほどよりもさらに緊迫感がましている。
さすがの私も飛行機のチケットが予約できたかどうかが心配で、黙っている。

携帯の電波が復活。
叔母:(チケット予約できました。秋田‐羽田‐福岡です。詳細を後で送ります。)
私:(ありがとうございました!!!!)

とにかく、チケットが手に入ったことがほっとした。
後はなんとしても時間までに秋田空港にたどり着けば福岡まで帰れる。
そう思ったら、人間不思議なもので、今日の夜は何を食べようかなと考え始める。
いつものくせで、携帯の食べログで酒田駅周辺を検索していたら、夫が

「こんな時にも、RaRa。らしいね。」と爆笑している。

確かに、無意識にいつもの行動をしていた自分が恥ずかしい。


( 19:40 酒田BC到着 )

酒田は雪が止んでいた。ホテルは酒田駅近くだったので、そこまで少し歩くが、
その前に駅に寄って、明日の電車の状況を確認しておかなければ。

電車は秋田方面は通常通りに運行していた。
早朝6時41分 羽越本線 秋田行きに乗れば、
秋田駅からエアポートリムジンに乗って秋田空港へ時間内に行ける。

チケットを二人分購入して、予約していたホテルへ向かった。
ホテルは地震の影響で節電しているというが、電気もお湯もすべて通常通り使えた。
地震以来お風呂に入っていなかったので、まずは何をおいても先にシャワーを浴びる。

そして、食事はと言えば、岩沼を出る前におにぎりを食べただけで、
持っていたお菓子類で今の時間まで過ごしていた。
ホテルの1階に居酒屋のようなものがあったので、そこで夕食をとる。

私たち以外は、みなビジネスマンという感じでのんびりした雰囲気だ。
久しぶりのちゃんとした食事。普通の居酒屋料理が夢のようなごちそうに思える。


( 23:00 )


部屋で寝る準備を済ませ、明日の朝も早いので眠りたいが、
今朝からの緊張状態で一向に眠気がない。
明日はまた朝から移動し、うまくいけば、夕方には福岡に着ける。
まだまだ気を緩める気分ではない。
羽田を経由するので、原発にこれ以上被害が大きくならないことを祈る。

今朝からの出来事を二人でしゃべっているうちに、少しだけ眠れた。


(酒田駅付近ホテル 一泊)



(2011年3月11日東日本大震災 「3・15 福岡へ帰ろう その3」・・・終わり




3・15 福岡へ帰ろう その2
原発や放射能の情報を調べていると、色々な意見を目にします。
私は、この自分の小じんまりしたブログを書くのにも、
「こんなこと書いていいんだろうか」と
びびりまくって、何度も何度も消しては書き直しているのに、
実名で放射能の現状を訴え、行動する人達を見ていると、
どれだけすごい勇気なんだと、単純に驚くばかりです。

そして、ネットでの様々な耳触りな情報が事実とするならば、
自分たちの生活を守るために闘おうとしている人達に比べて、
買い物して浮かれている私のなんとお気楽なこと。

なるべく気をつけるようにしていたつもりだが、
気持ちのどこかで「これぐらいは大丈夫だろう」と思っている自分がいて、
「極悪人でも、人の子でしょう」と性善説を捨てきれない甘ちゃんの自分がいる。

今は、福島原発から距離が離れたことと
周りに危機感を持った人がいないことが、危機感が薄れてる理由と思う。

でも、もし極悪人が事実そのまま極悪人だったら、
最近読んだ漫画GANTZのように(短絡的な比喩ですみません)、
どっちを向いても極悪宇宙人ばかりで、
気づいた時には、すでに八方ふさがりで手遅れなんだろうか・・・

「もう私は自分の家族は自分で守るしかないと思っています」
という必死なコメントをどこかのブログで見た。

生きるため、家族を守るために闘わなければならないと
思う人がいるのが、少なくとも今の日本の現状だろう。

お気楽な私も、じわじわと多少危機感を覚え、
これはある意味、国との戦争なんだろうかと思えてきた。
いや、国じゃなくて、欲深電気星人達か・・・・


今日は、3月15日の続きからです。


********************************

 (3月15日 13時30分 長町地下駅にて)


13時に岩沼の自宅アパートを出た後、
知り合いの車で仙台まで行ける地下鉄まで夫と二人送り届けてもらった。
途中、まだ停電中の箇所がほとんどで、信号機はついておらず、
交差点は今にも事故が起こってもおかしくない危険な状態だった。

道もところどころ隆起したり、亀裂が入ったりして、
ゆっくり走行しないと危ない場所もあった。
そんな中、長町までたどり着き、お礼を言って知り合いと別れ、
地下鉄に向かった。

長町はスーパーなど一部営業しているようだった。
地下鉄のホームに立つと、周りの人たちはお風呂に入っていない私たちと比べて
「風呂に入れているのか?」と思うほど、予想以上に身綺麗で、
しかも地震があったと思えないほど、普通の風景だった。

まるで私たちだけが、地震にあったようだと思いながら、地下鉄に乗り込んだ。
友人たちからの情報で、各空港へのアクセスや空席状況から
秋田空港が一番可能性があるらしいとわかった。
秋田に直接行ければいいが、まずは山形を目指すのが一番確実だろう。

バス乗り場は、県庁前だとテレビで言っていたが、並んでいるのは間違いない。
だったら、仙台駅前にもバス停はあるはずなので、
駅前で降りて情報収集してから、県庁へ移動しようと、地下鉄を仙台駅で降りる。

( 14:00 雨 )

地下鉄を出て、地上に出ようとしたら「バス乗り場」の看板を発見。
階段を上り地上に出たら、目の前になにやら人の行列があった。
並んでいる人に聞くと、「山形行きのバスを待っている列だ」という。
列はおおよそ30人ほど。これは意外と早く乗れるかもしれないと最後尾に急いで並ぶ。
幸運なことに、待つこと25分、2台目のバスに乗れた。
私たちの後ろには、次のバスを待つ列がまだまだ続いていた。

通常山形への高速バスは、割とすぐに東北道にのるのだが地震の影響で道が使えず、
笹谷まで一般道を走り、その後高速にのるとのアナウンスがあった。
笹谷の山越えは、以前自分の車で走ってかなり厳しいことを知っていたので、
高速に乗れるだけでも助かった・・・と思った。

バスの外は、いつしか雨から雪に変わっていた。
空いている席は限られていたので、私と主人は隣同士には座れず、
主人は私の一つ斜め後ろの席に座った。
一方バスの中は、補助席まで使い、完全に満席状態。

それでも、地下鉄の中ののんびりした空気と違い、
少しでも早く遠くに離れたいという気持ちが伝わる、張りつめた静けさだった。

そして、私の隣の補助席に座った人が、韓国の人だった。
補助席の使い方がわからないようだったので、教えてあげたらそこから話が始まった。

大学生の彼は、旅行で初めて日本を訪れ、そして被災したらしい。
けれど地震後、どこへ行っても見ず知らずの日本人が親切にしてくれ、
今日も、何もわからない状態で、山形空港へ向かうバスに案内してもらい
無事にバスに乗れたという。

「僕の日本語おかしくないですか?」と繰り返し聞く彼は、
まだ日本語は勉強し始めたばかりだというけれど、ちゃんと通じる日本語だった。
これだけ話せれば、見知らぬ土地でもコミュニケーションがとれて
ここまで来れたのだろうと思われた。

「地震で怖い思いをしたけれど、日本人が冷静でそして親切で優しいということが
わかって、日本へはいい印象しか残らなかった」と何度も言った。

そしてそれから色々な質問タイムに突入。
「日本人はなぜ暴動がおきないのですか?」
「こんな時にスーパーにみんな並んでいるのはどうしてですか?」

最初は、地震のことについて話していたのが、だんだん盛り上がり、
「韓流スターは好きですか?」
「○○(なんとか)というグループをしっていますか?」
「韓国ドラマは見ますか?」

「最近なら、××っていうの見たよ」と言うと、
それが日本語のドラマ名だったらしく、
なかなか伝わらずなんとか説明しようとしていると
私たちの斜め前の女性がおもむろに振り返り、
「××△△」と韓国語で彼に説明した後、私に日本語で「××よね」と言った。

偶然にも彼女は山形在住の韓国の方だった。
私たちのやり取りがもどかしく、こらえきれず参加してきたようだ。
それから彼女も交え、韓国のドラマについてあれ見た、あれ見てないの
韓国ドラマ談義。周りはだれ一人喋らずしーんとした中、
私たちの声は、きっとバスの中のみんなに聞こえていたことだろう。

彼は地震以後、初めてこんなに笑えたと言っていた。
切羽詰まった状況で、いかに私たちがお気楽に話していたかがわかる。

そのうち彼が、前の彼女に山形空港へのアクセス方法を聞き始めた。
それもお互いにやや片言の日本語で。意味が通じなくて苦労している。
不思議に思って、「お互い韓国語で話せばわかりやすいんじゃないの?」と言うと
「あなたの前で韓国語で話すとあなたにはわからないから、悪いと思って・・・」だって 笑
「私は山形空港へは行かないので、韓国語でどうぞ」というと韓国語でお互い話し始めた。
律義と言うか、おもしろい。

そうこうしているうちに、山形のバスセンターが近づいてきた。
私は九州へ帰るところだと言い、彼はソウルへ帰るという。
お互い無事に帰れますようにと話し、「今日は一人でしたか?」と聞くので、
「夫も一緒よ。」と言うと、私の横はかなり年配の男性だったので、
不思議そうに見るので、「後ろの席」と言うと、夫が「どうも」と言い、
すると彼は夫に「奥さんと勝手に話してすみません!!!」と猛烈に謝罪。

その声がやたらと大きくて、慌てて周りの席の人達にも
「騒がしくしてすみませんでした」と謝っている。
ますますおもしろい。

補助席の彼は先に出るので、「では元気で!」と別れた。
避難しようとしている途中なのに、楽しい思い出になってしまった。
不思議な縁もあるものだ。

さあ、私たちも秋田空港目指して、これからどこまで移動できるか。
バスを降りてからが勝負だ。


(15:40 山交BC到着)



(2011年3月11日東日本大震災 「3・15 福岡へ帰ろう その2」・・・・終)





3・15 福岡へ帰ろう  その1
楽しむこと、買い物すること、美味しいものを食べること。

地震以来、最初は何もする気になれなかったのもあるけれど、
そのうち、何かしようとすると、罪悪感がふつふつと。
みんな大変な思いをしているのにいいんだろうか・・・と、なんとなくすっきり楽しめない。

こんなんじゃ、いつまでもウダウダしててだめだ!
と、まずは再び伸びた髪をざっくりショートに。
カラーして、パーマして、ヘッドスパまで!

さらに、ええいっと、欲しかった夏物バーゲン品をお買い上げ!
洋服に、サンダル!

自分にしては久々に散財したな!と一瞬すっきりした感があったが、
冷静になると、「ちょっと贅沢しすぎたか・・・」と違った罪悪感が・・・

栄養補給したと思って、がんばろ。

今日は、3月15日の出来事です。

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 (3月15日の朝 電気復旧 自宅にて)

15日の朝。目覚めると、夫がいきなり、

「しばらく九州に帰ろう」
「RaRa。のそういう「勘」はだいたい当たってるから」と、言いだした。

私が原発が心配だ、心配だと言うので、夫なりに色々考えたようだ。
夫の職場は津波で被災しており、しばらく仕事も休みになりそうだった。
ちょうどその日の午後には正式な通達が出そうだというので、
その後すぐに行動できるように準備することにした。

しかし、地震の影響で交通手段がはっきりわからない。
それに、ちゃんと九州に帰れる保証もない。
調べる時間も手段も限られているので、
九州の友人たちに手伝ってもらうことにした。

「今日、九州に帰ろうと思うので、動いている空港と飛行機、
公共の交通機関を調べてメールで情報を送って欲しい」

と頼むと、快く数人が引き受けてくれた。
後でわかったことだが、私が直接連絡したのは2人だったが、
その友人がまた他の友人に声をかけ、情報を集約して、
私に連絡を入れてくれていたようだ。

みんな忙しい中、こまめに情報を集めてくれて本当に心強かった。
実際、友人たちの情報のおかげで、その後順調に九州に帰ることができたのだ。


テレビでは、仙台から移動しようと100人ぐらいの人がバスを並んで待っているという。
岩沼からはまずは、各地にアクセスできる仙台に移動しなければならない。
普段はJR一本で20分ちょっとだが、JRが動いていない。
一部地下鉄が動いているという情報あり。

空港は、宮城よりも南下すると福島に近づくのでできれば避けたい。
となると、山形、庄内、秋田、青森空港辺りがいい。
仙台から各空港までのアクセスが問題だ。
おそらくバスで乗り継ぐしかないだろう。
さらに状況次第では、タクシーで山形入りすることも想定内だ。
仙台でタクシーに乗せてもらえればの話だが・・・


友人から随時メールが送られてくる。
どうやら飛行機の便も満席、
もしくはどんどん空席が埋まっていく状況のようだ。
いったん家を出ると、その日どこまで行けるかもわからず、
どういう経由で九州へ戻るかわからない。
仙台でバスをまた何時間も並んで待つことになるかもしれない。


さらに、各地の携帯の電波状況もわからない。
私たちの居場所を伝える手段を考えていたら、災害伝言ダイヤルに気付いた。
とりあえず、家を出て九州へ向かう予定であることと、
連絡が全く取れなくなったら、災害伝言ダイヤルに居場所を入れておくので、
それで私たちの行動を確認するように実家や、親戚、一部の友人に連絡を入れる。


友人から届くメールでの情報を確認しながらも、
同時に必要な荷物を準備しなければ。
どこへ行くか、九州まで何日かかるかわからないので、
身動きが取れる大きなリュック一つに入れられるものだけを厳選する。


空港で空席待ちの寝泊りをすることも考えて、寝袋は二人分必要だ。
九州へ戻る飛行機で空席を優先して考えると、北海道の新千歳経由の可能性もある。
となると、寒いので防寒対策が優先だ。寝袋があるので、洋服は沢山は入らない。
最低限の厚手の靴下やフリース類、防寒着も兼ねてレインウェア上下。
靴は雪が降っていてもいいように登山靴にしよう。
アウターはポケットが多く、防水撥水効果もあるスノボ用の上着を着ていこう。


いよいよ飛行機がないと、韓国の仁川経由で福岡入りもありだ。
パスポートを持っていこう。
現金、クレジットカード、航空会社のマイレージカードもチケットの予約に必要だ。
後は、下着を数枚。化粧品なんて持っていけない。衣食優先だ。


食糧の予測がつかないので、買い置きしたチョコレートや飴を密閉袋に詰め替え、
リュックの隙間のあちこちに詰める。念のため、ラジオ、ヘッドライトも入れておこう。
水はペットボトル500Lを2本が重さの限界だろう。
移動中、空港の場所、公共交通機関を知るのに、おおまかな地図が必要だ。
分厚い地図帳は持っていけないので、
東北地図の一番後ろのページの全体地図のページだけを
本体からびりびりと破り取って、上着のポケットに入れる。


夫が、通達を受けて休みが確定したと言い帰ってきた。
さらに同じアパートの知り合いの方が、車が無事だったので、
地下鉄が動いている長町(通常、車で20~30分ほど)まで
送ってくれることになったので、1時間後に駐車場に集合だと言う。

ガソリンもまだめどが立たず、ご自身も今後ガソリンが必要になるかもしれないのに、
信じられないご厚意だった。私は自転車で駅まで行くことを予想していたが、
気づくと外は雨が降っていた。確かに大型リュックを背負い、雨の中自転車で行くのは厳しい。

(今思えば、原発爆発直後の雨だったので、濡れることが避けられて良かったと思う)

せめて家にあったすぐ食べれるような食糧をその方に分けてお渡しして、
ガソリン代にお金を渡そうとしたが、お金はいらないと受け取ってもらえず、
食料だけでもありがたいと、かえって恐縮されて、
なんと言っていいかわからないぐらい感謝の気持ちばかりだった。


家を出たらいつ食事が取れるかわからないので、特大おにぎりを準備しておいた。
出かける直前、二人でそそくさとおにぎりをと食べた。
夫の話では、私たち以外、どこかへ避難しようという人達はあまりいなかったらしい。

「私たちが急いで九州へ帰ったことが、後で笑い話になるといいね」と二人で話した。


電気はまた停電などがあるといけないので、家中のコンセントをすべて抜いて
ブレーカーを落とす。大きなリュックを背負い、登山靴を履いて、
地震以来お風呂に入っていないので、
化粧なしのすっぴん&ぼさぼさの髪に帽子を目深にかぶる。


友人からは、原発に危機感を覚えた人達がどんどん移動していると
「早く移動して!」という切迫したメールが届く。
原発がこれ以上危険な状態にならないよう、
無事に九州へ帰れるよう祈る気持ちで、小雨の中、車に乗り込み家を後にした。


(2011年3月11日東日本大震災 「3・15 福岡へ帰ろう その1」・・・・終)



3・14 食糧確保
数日前NHKスペシャルを見ていたら、
取材を受けていた被災者の方が言っていた。

「こんなに電気に振り回される人生になるとは思わなかった」と。

人の財産を奪い、生活する場所を奪い、生活の糧を奪い、
さらに今後は人の命にかかわってくるかもしれない原因は

「放射能」

今後どれだけの犠牲を払わなければならないのか予想もつかない。

地震や津波が放射能を出した訳ではない。
電気は必要だし、地震後も電気がついたことがありがたかった。

けれど、話は別だ。
そもそも「命に危険が及ぶほどの電気」を望んだ訳ではない。
「安全だ」と言ったからには、その責任をとる必要があると思う。

子供を安心して育て、日々の暮らしを
穏やかに過ごしたい人々の人生を奪った罪は
頭を下げただけではすまない。

人の命に関わる大罪。早く法で裁いてほしいと願う。
「安全だ」と言った、責任ある立場の責任を取らないあらゆる人達を。


今日は、3月14日の出来事です。


********************************

 (3月14日の朝 停電中、断水中 自宅にて)

前日水を確保し、家中の食糧を集め、電池のストックなども確認。
電池は使う必要のないものからはすべて外して、
ラジオやランタン用に一か所に集めておく。

前日得た情報から、今日は自宅から自転車で20分ほどのスーパーに行く。
おそらくまた行列ができることが予想されるので、
朝7時過ぎには用意を済ませ、夫とともに出発。

電気がまだついていないので、信号機もついていない。
途中の道路は、相変わらずガソリンスタンドに並ぶ車でかなりの行列ができている。

7時40分 スーパーに到着。

20人ほどの人がすでに並んでいる。私たちも列の最後尾につく。
途中でお店の方が出てきて、8時半に開店予定だとアナウンスする。
私たちの後からも人は並び、どんどん列は長くなる。

時間通りスーパーは開店。
30分ほど待って、私たちの順番がきた。

店内は商品もまばらで、ところどころ電気がついているが薄暗い。
入口に行くと、係の人が一人ついてくれた。
欲しいものをかごに入れるときに、担当の人がその商品の値段を値札で見て
紙に書き留め、その都度計算してくれる。
レジが動いていないので、自分の担当の人が書いてくれたメモを持って
レジで精算する仕組みになっていた。

買いたいものを買いたいだけ買える。
ただし、待っている人達の行列を考えると、
すばやく必要なものをそろえなければ。

お店の方も被災したであろうに、こんなときにもお店を開けてくれるのが
本当にありがたく、お礼を言うと「それが私たちの仕事ですから」と笑顔で
快く対応してくれて、ただただ感謝の気持ちばかり。

夫と手分けして、アパートの人にも分けられるようなものを購入。

以下購入品。

昆布の佃煮、ウインナー、ハム、りんご、ブロッコリー、大根
菜の花、スナック詰め合わせ、チョコレート詰め合わせ、ラップ、
サケフレーク、なめこの瓶詰め、味噌汁の具、マカロニ、そば、
カレーのルー、卵

ちなみに米類、インスタント食品、飲料水、ガスボンベは、その日すでに完売していた。

冷蔵の物は、停電中なのでそれほど日持ちしないので早めに食べた方がいいとのこと。
とりあえず、二人のリュックに入る分だけ買って家に戻る。

普段私は買い物は、ほとんどがカード払い。
現金が財布に入っているかどうか日ごろから確認していないので、
突然カードが使えないときに、1000円ぐらいしか財布に入ってなくて慌てることも。

それが偶然、今回は地震前に少し多めにお金を財布に入れておいた。
スーパーの買い物でも現金が必要だったが、
その後、九州へ帰省するときも、移動する手段が限られていて、
タクシー、高速バス、飛行機、ホテルの宿泊とカードが使えない事態も予想された。
夫と合わせたらそこそこお金は持ち合わせていたので、
とりあえず大丈夫だろうと安心できた。ATMが開いてない、銀行、郵便局もだめ、
カードが使えない。そんな事態にはやはり、ある程度の現金が必要だと感じた。

家に戻ると、とりあえず数のある食材を段ボールに詰め近所の家を回った。
ウインナーやハム、リンゴ、お菓子などが人気だった。
卵が結構数があったのだが、思いのほか備えている家も多く余ってしまった。

自宅に戻り、あるもので昼食を作ろうとしていると、電気がついた!
外出中はブレーカーを落としていたが、
在宅中はブレーカーを上げ、コンセント類は全部はずし、
台所の小さな電気だけつくようにしていたので、電気が来たときすぐにわかった。

家中確認したが、特に異常がみられないので、一つずつ電気をつけていく。
テレビもみれる。
その時初めて、津波の被害を知った。

(こんなことになっているなんて・・・・)

固定電話もつながった。携帯もつながったが電波が不安定だ。
パソコンはなぜか使えない。
情報は、テレビとラジオと時々つながる携帯になった。

私と夫とそれぞれの実家に連絡する。初日の公衆電話以来の連絡だ。

ひたすらテレビを見ていると、原発の状況がとても気になり始めた。
その日も新たな爆発が起こっていた。
地図をみると自宅から原発は直線で80キロ圏内。

飲み水は2、3日はあるが、また数日後給水にいかなくてはならない。
食糧はとりあえずなんとかなるが、いつまでこんな状況が続くかわからない。
原発の被害が拡大しているように見えるこの状況で、
外に出なければならないことは、この先あきらかだ。

空気は大丈夫か。そればかりが気がかりで、外に出るのが怖い。
その時から私たちは、今後の対策を地震ではなく、原発について考え始めた。


(2011年3月11日東日本大震災 「3・14 食糧の確保」・・・・終)



  

photo by hemitonium.
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